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大阪高等裁判所 昭和24年(を)3914号 判決 1950年6月20日

被告人

杉本洋

主文

本件控訴を棄却する。

理由

弁護人小林昶の控訴趣意第一点について。

論旨は本件は猥褻な文書に当らないから無罪であると主張する。いうまでもなく、性道徳の乱れと風紀の弛みは一国文化の盛衰に至大な関係を有するものであるから、猥褻な文書、図画、その他の物の頒布販売は厳重に之を取締らなければならないのではあるが、それがために真の芸術文学までが蹂躪されることとなつては由々しき大事であるし、何が猥褻なりや否やということは、時空を超越して断じ得る問題ではなく、時と所に従つて決すべき問題であるから、性に関する道徳律や倫理観の歴史的推移過程を考察し現時における正しい社会通念を見出し、これを標準として客観的に猥褻の判断を下さなければならないことは所論の通りである。そしてその猥褻の判断は思慮分別の一人前でない青少年の知能を標準とするものでないことはもとより当然である。若し青少年が読んだり見たりして差支えないものが一般国民の健全な読み物の基準だとし、純良な青少年に悪影響を及ぼすという理由だけで猥褻の判断を下すならば一国の文化は知能の低い単純な青少年の文化以上に向上することはあり得ないであろう。弁護人も主張する如く女子の服装や男女間の交際関係が往時に比べて現代に於ては比較的自由に解放的になつてきていることは否めない事実であるが、これは社会が進歩すれば各人の教養も高まつてくるので法律や道徳で個人の私生活に干渉を加える限度を少なくして公序良俗の範囲を越えてならない限度はこれを各人の良識ある判断に委すという理念に基くものである。しかし、いかに男女間の交際関係が自由になつたとしてもその最後の一線である性的交渉そのものは、あくまで純潔を保つことを理想としなければならない。性生活の紊乱が各種の社会悪の根源となることは多言を要しないのであつて性生活は現代に於てもいわゆる閨中の秘事として夫婦の間に於て経験すべきである。従つて性生活そのもの又はこれと密接なる関係を有する事項を公然と表明し以てみだりに性慾を刺激するようなことは今日の社会に於てもこれを取締る必要がある。社会生活が復雑になるにつれこの取締はむしろ一層厳重であらねばならないとも考えられるのである。

元来小説は倫理道徳の教科書とは異なり、社会の光明ある方面における人の善事道徳のみを敍述するを唯一的目的とするものではなく、広く人類社会の各方面にその題材を求めて之を創作し読者の慰安、娯楽、鑑賞に供すると同時に読者をして人生の何たるかを知らしめ、その修養、教養、美意識の向上、趣味の向上等に資し、その知性を高め、風俗を浄め、精神を美化し楽しませるを以てその本領とするものであるから、時に或は社会の暗黒面における陋劣な情慾の発露動作を描写してその欠陥を指摘し、或は人の醜悪な心理状態を示して之を読者の道義的批判に委ねるのはもとよりそのところであつて、作者が社会的醜悪打破の熱情の発するところ多少具体的な情事描写に及ぶ場合もあることは諒とされるけれども、かような小説といえどもそれ自体文学として常に超ゆることのできない一定の限度がある。そして、その具体的な描写が現時の健全な風俗感情、道徳的感情をもつた平常な普通人を標準として客観的に観察して、一般読者をして情慾の発動を連想し、羞耻厭悪の感をひきおこさしめるときはいわゆる猥褻の文書に当るのである。それゆえに如何なる程度に情事を描写したものが猥褻文書にあたるか否かを定めることは誠に困難な事柄であつて、その著作の動機目的趣旨も考慮しなければならないことは所論の通りであるけれども、要は主としてその文書の問題の部分だけではなく文書全体を綜合的に観察して健全な普通人の良識に訴え、それが性慾を刺激し嫌悪の情をそそるものありとすれば、換言すれば善良な家庭団欒の席において読むに憚るところあり、見るに恥ずるところあるものはすなわち猥褻文書としてとり上げられるのである。従つてたとえ、著作の動機、目的は善であつても、記述の内容如何によつてはその目的動機は抹殺され猥褻文書たるを免れないのである。

以上説明した観点から原判決認定の事実を考察すると、雑誌人間探究第一集「地獄に堕ちた女」中第一話「乳房ある悲しみ」はパンパンの告白として、女専在学中処女を失い卒業後陸軍将校と結婚し、初夜より夫出征までの短い新婚の性生活の後、間もなく夫の戦死にあい、戦争未亡人として愛慾に悶え、夫の戦友や学友と情交関係を結び、遂にパンパンに堕ち、最初の遊客やパンパン宿の親爺に売淫する場面の男女性交の活動的情景を経験感情や想像感情を交え卑猥な表現を用いて描写し僅かに十三頁にすぎない短篇に主として情事を記述したものであり、第三話「覗かれた夜の天国」も男女交際の情景を前話よりは多少簡単ではあるが「乳しぼりの女にかかつた牛のようにアツサリとやめられてグンニヤリしながら不満足であつた」というような卑俗な表現を用い、しかもそのパンパンクラブにおける情景を秘密戸棚から他の男女が覗く乱倫背徳の事項を記述しているのであるから、所論のような著作の動機目的如何に拘らず、前述の観点からまさしく猥褻文書と認めざるを得ないのである。論旨は理由がない。

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